螺旋を描いて…

螺旋 のごとく続く毎日を綴ります

おばあちゃんの思い出…

今週のお題「私のおじいちゃん、おばあちゃん」

 

「おじいちゃん」は、裏ブログで書くので…

kiha-gojusan-hyakusan.hatenablog.jp

 

表ブログは、「おばあちゃん」で。

 

祖母は2人とも亡くなっています。

ただ、両親とも実家から離れて暮らしてたので、あんまり親しみを持つことはありませんでした。

 

母方、上田の祖母は、神経質そうな方だったかな?

イメージとしては、「怖い」おばあちゃんでした。

 

小学校4年生ぐらいかな?

一度、実家付近で迷子になったことがあって。

迷い込んだ国道には、「東京○○km」なんて表示が出てて。

「おばあちゃんに怒られるから、もう東京まで歩いて帰ろう…」なんて決心したり。

 

この祖母が亡くなったのは、確か高校生の頃。

当時住んでいたのは、鹿児島。

上田とは遠く離れていて、母だけが葬儀に向かいました。

僕はその事実を、覚えているだけ。

二親等ではあるけれど、縁遠い人でした。

 

僕自身、父母両方とも「外孫」の立場。

一方、祖母もそれほど子供に親しむ環境にいたわけでは、なかったようです。

 

お互いに、付き合い方を知らなかったのかも知れませんね。

 

 

父方、南魚沼の祖母は、もうちょっと親しみがあったかな?

内孫や、外孫でも近くに住む孫が、何人もいましたから。

とは言え、僕自身はどうしても「外孫」なんで、べったり可愛がってもらうなんてことは、ありませんでした。

 

ただ、微笑みを絶やさない人でしてね。

穏やかなおばあちゃんでした。

 

幼稚園入りたての頃、ゴールデンウィークに里帰りしたことがありました。

母は弟が小さかったから、自宅に残ったんじゃないかな?

そしたら僕、風疹になっちゃって。

はえらい困ったそうです。

 

その時覚えてるのが…

薬を飲まそうとして、僕を「あ~大人だ、大人だ!」って、なだめすかしてたことかな?

褒めて伸ばすタイプの、おばあちゃんでした。

 

この祖母が亡くなったのは、実家も僕も、草加に帰ってきてから。

関越を飛ばして、2往復しました。

関越トンネル前後の峠は、ものすごい雨に霧で!

慎重に運転はしましたけど、ものすごく怖かったことを覚えています。

前が、見えないですもん!!

 

忌中での役割は、線香番でした。

火が絶えないように、寝ずに線香を足していくんです。

もちろん「飲みながら」

当時失業中で、しかも夜型だったので(酒も全然OK!?)、難なくこなしたんですが、なんかえらい評価されたらしくって。

 

もともと、僕は南魚沼では蚊帳の外状態でしたから、おばあちゃんの“最後の”力で、親戚の皆さんと、少しはお近づきになれたのかも知れませんね。