生まれは東京の日野市ですが、1年ちょっとしかいないで、草加→綾瀬市→姶良→松本→湯河原と移り住んで、また草加に戻ってきて、もう15年。
僕の故郷は、「草加」といえるでしょう。
でも、草加はこんなシリーズを進行中なので…
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第二の故郷、鹿児島について書きます。
まぁ、どの街も5年以上はいるので、思い入れは十分あるんだけど、やっぱり中高生時代を過ごした鹿児島・姶良町は、特に思い入れのある街です。
最近になっても、何度か訪れているんですが…
今回は敢えて、昔の写真を使って、書きますね♪
鹿児島と言えば、桜島です。
県章にも描かれる桜島です。
美しい姿は、県民のシンボルです。
でも、一度噴火(現地では「爆発」って言います)すると、轟音とともに、こんな怒りの姿に!!
これは、さらに運が悪い場合!
爆発時、風向と風力がバッチリ合ってしまうと、もう髪の毛も目も口も、悲惨なことになります。
洗濯物なんかは、さらに悲惨!!
灰は水で膨張するので、洗濯物に灰がかかると、二度と取れなくなります。
そのため、鹿児島の天気予報では必ず、「桜島上空の風向き情報」ってのをやるわけです。
これは、自宅のすぐそば。
日豊本線が通っていて、「帖佐」という駅がありました。
鹿児島は、交流電化。
それどころか、肥薩線や吉都線、大隅線など、非電化路線への直通列車があったので、気動車列車も数多くいました。
客車もいましたが、機関車は赤。
そう、それまでの常識とは全く違った、楽しい列車がたくさんいたんです。
僕の鉄道趣味は、大きく、広く、深くなりましたよ。
これも、鹿児島ならではですね。
現地では「電車」というと、路面電車を指しました。
国鉄/JRは、「汽車」でしたね。
遠く吉松や栗野から、「汽車通」してた友達がいましたよ。
今は「JR」がつきますが、当時の日本最南端駅・西大山駅。
周りには何もないですが、開聞岳が美しい景観の駅です。
さて、鹿児島では船や飛行機も、重要な足です。
飛行機の絵はないんですが、鹿児島空港にはジャンボジェットやトライスターなどの大型機や、DC-9やB-727などの中型機、そしてプロペラ機のYS-11もいて、非常に多彩なラインナップでした。
地方空港としては、断然面白い空港だったと思います。
僕の飛行機趣味も、この時大きく開眼したんです。
飛行機で行ったのが、こちら。
珍しいものに、目を見張りました。
ボス猿??
今はもう、廃止されてますけど…
たった9人乗りの超小型飛行機「BN-2アイランダー」に乗ることができたのは、人生のうちでも非常に大きな幸運でしたよ。
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こちらは船で沖縄から入って、飛行機で帰りました。
沖永良部島です。
正直、沖縄は俗化していて、どっちかと言えば期待外れだったんです。
でも、ここ沖永良部の海はきれいで、海岸も手つかずの自然。
天気もよくて、思いっきり遊んで、とてもいい印象が残っています。
そう、それまでの生活にないものとして、自家用車を手に入れたことも、大きいですね。
こちらは、2代目です。
車では比較的、県外まで出てしまうことが多かったんですが、ここはやっぱり車でないと、行けません。
※ 写真が二重焼きになっていますね
本土という括りでは、最南端になります。
そう言えば、ここで弓道部の同級生と、何故かばったり会いましたね!
あっ、部活は弓道をやっていました。
中高5年半、勤しみました。
…当たんなかったけどね。。。
ちなみに、弟は剣道!
(写真は適当です)
この後、中学ではブラスバンドに入り、それが彼の人生において、大きな武器になっていきます。
父は、家庭菜園!
実は、畑のすぐそばを川が流れていて、水には困らない環境でした。
なので、思いっきり楽しんだようですね。
…母は草むしりを、やらされたそうですが。。。
そのほか父は、ゴルフ、釣り、車の運転など、それこそ当時の関東では習得が難しい趣味を、たくさんものにして、後の人生を豊かにしていきます。
まぁ、僕だって、鉄道、飛行機、食べ物、ラーメンなど、多くの刺激を吸収して、その後の人生に非常に大きな影響を与えることになるわけです。
僕ら家族の知識や楽しみを、三次元的に増やしてくれたのが、この鹿児島での5年半(家族はさらに長く)だったんです。
とは言え、特に弟は、言葉には苦労したようですね。
先生が年配だったそうです。
中学で行った僕は、それほど鹿児島弁には染まらなかったんですが、一つだけ、今でも使うことがあります。
「なおす」
片付ける、しまうって意味の言葉ですが、何故か僕の一番苦手なことの言葉を、染みつくほど覚えることになりましたとさ。