※ この記事は落語「黄金餅」からインスピレーションを得て作成しておりますが、内容は素人の散歩であり、地理、歴史及び落語の研究には主眼を置いておりませんので、ご了承願います。
そう、日本橋を越えると、中央通りはそれまで国道4号線だったのが、天下の国道1号線になります。
この交差点で、別れてしまいますけどね。
その先は国道15号線となって、このまま中央通りを進み、新橋からは「第一京浜」と名を変えて、横浜市神奈川区の青木通交差点まで続きます。
皇居付近は曲がり角が多く、日比谷通り、内堀通り(晴海通り)を経て、桜田通りを南西に進み、西五反田1丁目から「第二京浜」になります。
ちなみに「第三京浜」はずっと西、世田谷区玉川から、横浜市の保土ケ谷まで。
自動車専用の道路です。
旅は真っ直ぐ、国道15号線沿いに、しばらく進みます。
さて、日本橋の「通」ですが、今の地名はそのものズバリ「日本橋」です。
1丁目
2丁目
3丁目…
そう、「日本橋4丁目」は、ないのです。
通一丁目から通四丁目までを、3つの丁目に集約したようですね。
せっかくなので、1丁目から…
COREDO室町の他に、COREDO日本橋もあります。
三井のビルですね。
2丁目に入ると、こんな銀行が。
香川県の銀行ですが、いわゆる「ナンバー銀行」では、現存する最も数が大きい銀行です。
ちなみに最も小さいのは、「第一勧業銀行」…は合併して「みずほ銀行」ですので…、
…この前、撮っときゃよかったな。。。
重厚かつ美しい百貨店です。
三越がライオンなら…
高島屋は“バラ”です。
戦後、美の象徴としての“バラ”を、高島屋の花として使いたいと、当時の社長・飯田慶三氏が発案したんだそうですよ。
その正面には、「丸善」!
洋書と言えば、ここですね。
あと、「ハヤシライス」の命名元??という話もあります。
創始者は、早矢仕(はやし)有的さんって言うんです。
3丁目に入ると…
養珠院は家康の側室「お万」で、紀伊徳川家の頼信、水戸徳川家の頼房の母です。
日本橋の商家にとっては大事なお客様で、没後、稲荷を勧請。
両徳川家に遠慮して、字を変え、「於満稲荷」としたそうです。
ビルの谷間ですが、お堂が残ります。
窮屈そうですが。
商売繁盛に、あやかって。
江戸中期には「於満すし」なるものも流行ったとか。
どのようなものだっかのかはわかりませんが、お万の方はこの界隈を、大いに潤わせたようですね♪
こんな通りも、ありました。
「はっぴい」なんて読ませるんですね♪
八日に市でも立ったんですかね?
そして、日本橋3丁目の角には、ひときわ目を引く、これがあります。
キリン像。
現在は不動産のスターツコーポレーションのビルですが、その前は津村順天堂の本社があったそう。
漢方において、キリンは王様の象徴だそうで、建立したそうですよ。
今はランドマークとして親しまれ、記念撮影する方も、いるそうで。
(僕もか!?)
そろそろ次へまいりましょうか。
次は「あれから京橋を渡りまして、真っ直ぐに…」
kiha-gojusan-hyakusan.hatenablog.com
振り返って「日本橋を渡りまして…」