昨日行ってきた、行田市の続きです。
あっ、読みは「おしじょう」ですよ!
成田氏の居城であり、北条氏の小田原城の支城でもある、大変重要な城でありました。
周囲を利根川と荒川に囲まれ、湿地帯が広がる中に位置する城で、関東七名城の一つに数えられる、難攻不落の名城だったそうです。
この城の名がとどろいたのは、1590年(天正18年)、忍城の戦いでした。
豊臣秀吉が小田原城を攻めた時、石田三成を大将とする軍を仕立てて、この支城・忍城の攻略を企みました。
兵力は2万、最終的には5万とも言われ、一方の成田軍は2千程度。
秀吉は光成に、「水攻めで攻めよ」と命じます。
三成はそれに従い、巨大な堤を築いて、城を水攻めにします。
今でも、「石田堤」なるものが残るそうです。
ところが、本丸は沈まず。
「まるで浮き城のようだ」と恐れられます。
しかもそのあと、成田軍により堤防が壊され、溜まった水が逆に豊臣軍を襲う!
さらには水が抜けた天守の周りは、泥だらけで馬も進めない。
とても攻めるどころではなくなってしまいました。
結局、小田原城が開城して、北条氏が滅亡してしまったので、約1ヶ月で忍城も開城することになるんですが、それでも10倍もの軍勢を耐え抜いた、天晴れな籠城でありました。
「落ちない城」として、受験のお守りも売られていました。
姪っ子にどうかな?とね。
逆に、城を落とせなかった三成は、「戦下手」のレッテルを貼られる屈辱を味わうんですが、これには異論もあり、秀吉が自らの動員力、つまり「力」を周囲に見せつけるために、あえて大掛かりな水攻めにこだわった、という説もあります。
三成は兵力に物を言わせて、一気に攻め滅ぼしたかったらしい!?
となると、三成は中間管理職の悲哀を味わった、と言えなくもないですね。
その城は、マンホールにもなっています。
これはオマケ。
今は珍しくなった「電電公社」のマンホール♪
他にも行田には、いろいろ風物がありまして。
「埼玉県」の県名発祥の地とされています。
この碑があるあたりの地名は、「埼玉」。
読みは「さきたま」ですが。
当時あった「埼玉郡」が広かったので、現・埼玉県の東側は「埼玉県」となりました。
後に「入間県」と合併して、現在の埼玉県になるんですが、旧・埼玉県の県庁は、実は岩槻にありまして。
岩槻にもお城がありますね。
ただ、行田には地名もあるし、もっと古い「古墳群」があるではないか!
というわけで、ここに碑を建てたそうです。
これは…
足袋蔵です。
そう、行田は「足袋の街」でもあるのです。
江戸中期、藩主阿部忠喬が、江戸から伝来してきた足袋の製造を奨励したため、足袋の街として発展しました。
こんな創作足袋屋さんがありまして。
父が選んだ足袋。
予想よりもサイズが大きかったようで、履いてみて正解、だったそうですよ。
僕ですか?
まだ、これで十分です…
そば屋の蕎麦は売り切れだったけど、こんな名物をいただきました。
コロッケのような食べ物ですが、衣におからを使うのが特長だそうです。
その形から「銭フライ」と呼ばれていたのが、いつの間にか「ゼリーフライ」になったそうです。
ソースが最初からかかっていて、なかなかの味でしたよ♪
ちなみに市内で「フライ」というと、別の食べ物になるそうです。
お好み焼きか、チヂミのような食べ物だそうですよ。
一転、こちらは辛いヤツ!
山本の奈良漬にて。
しそ巻き唐がらしは、相当辛いらしい!
刻んで具材やつまみにします。
そう言えば、絵に描かれてる「古代蓮」も、行田の名物。
今回は既に花は終わっていたんですけど、また行く機会があれば、見てみたいですね。
唐がらしでピリッと締めて、今回の旅を終えることにしました。