※ この記事は落語「黄金餅」からインスピレーションを得て作成しておりますが、内容は素人の散歩であり、地理、歴史及び落語の研究には主眼を置いておりませんので、ご了承願います。
五軒町。
末広町の辺りになります。
由来は、以下の五軒の御屋敷があったから!
上総久留里 三万石 黒田家(君津)譜代
下野黒羽 一万八千石 大関家(大田原)
安房勝山 一万二千石 酒井家(鋸南)譜代
播磨林田 一万石 建部家(姫路)
信濃上田 五万三千石 松平家(上田)譜代
なんと、五軒のうち、三軒が“譜代”!
外様の大関氏、建部氏も、重職を担うお家柄だったそうですよ。
と言うことは…
明治維新になると、この五軒は新政府に没収されてしまいます。
家屋は取り壊され、畑にされてしまいましたが、程なく賑やかな町屋となり、五軒町との町名がつきました。
5人の殿様は、きっと慕われるお人柄だったんでしょうね。
「五軒町」の名は、今も町会名に残ります。
隣は「練成公園」!
訓練道具でもあるのかと探したけど、普通の公園みたい。
奥の建物は、元練成中学校。
今はアーツ千代田3331です。
「練成通り」もあります
戦時中、 竹やりでも訓練した?
それとも、受験戦争??
いろいろ調べたら、昌平小学校のページ(かな?)に、答えがありました。
元々はこの学校、神田佐久間町にありまして。
秋葉原駅付近ですね。
次にちょっと北の下谷練塀町(ねりべいちょう)に移転、曲折あって、明治31年に「練成小学校」が誕生します。
練塀の「練」、御成街道の「成」、だそうですよ。
ところがその翌年、学校はさらに移転して、現在地・五軒町へ。
今度は校名は変わることなく、今に至るわけです。
ここからは想像になりますが、たった一年でまた校名を変えるのは、抵抗があったでしょうし、鍛え育成する“練成”という言葉の響きが、学校にマッチしたのかもしれませんね。
そろそろ次へまいりましょうか。
次は「その頃、掘様と鳥居様という御屋敷の前を真っ直ぐに…」
kiha-gojusan-hyakusan.hatenablog.com
振り返って「御成街道から…」