※ この記事は落語「黄金餅」からインスピレーションを得て作成しておりますが、内容は素人の散歩であり、地理、歴史及び落語の研究には主眼を置いておりませんので、ご了承願います。
御成道(御成街道)は、おもに将軍が通る道として、整備された道です。
おっと、これは…
戸塚安行駅にいました。
日光御成道は、本郷追分で中山道から分かれ、岩淵(赤羽)、岩槻等を経由して、幸手の手前で日光街道に合流します。
現在の岩槻街道、国道122号線の一部になります。
本題の御成街道は、「下谷御成街道」で、将軍が寛永寺にお詣りするための道です。
基本、将軍は大手門から出て、小川町、淡路町を経て、筋違橋で神田川を渡るんですが、この「筋違橋」から先を、御成街道というそうです。
こちらはほぼ、現在の「中央通り」。
都道437号線と、わずかに国道17号線が被り、秋葉原・万世橋までになります。
万世橋は当時ない橋、筋違橋は現在ない橋ですね。
上野広小路で交差する、春日通り。
地下は、大江戸線です。
ちょっと下ると、こんな広場。
黒門児童遊園。
何故か、リンゴ??
これ、ヒメリンゴの木だそうです。
かつては、こんなお店も。
可否茶館(跡)
有史に残る日本初の喫茶店だそうです。
目指したのは「庶民のサロン」!
トランプやビリヤードといった娯楽道具や、内外の新聞・雑誌を常備、筆や便箋もあったそうですよ。
社交場でも、あったのですね。
広い道路が、千代田区に入ります。
末広町!
こんな由来が、あるそうです。
末広町は実は、明治からの町名。
この辺りは明治維新の頃、上野戦争の戦場となりまして、家や家族を失った人も、多かったそうです。
なので、「せめて新しい町は、末広がりの平和な町に!だったのでは?」
だそうですよ。
秋葉原の辺りはメイドさんとかコスプレさんとかがいっぱいいて、止まってられないので、写真は撮れず。
すっかり、そういう街になりました。
万世橋交差点。
当時あったのは筋違橋で、もっと西側、昌平橋寄りに架かっていました。
ということは、道筋も違う!
いろいろ調べた結果、この道が当時の御成街道の名残で、道の先はビルではなくて、筋違橋があったらしい!
(特別区道千第681号線、で合ってる?)
筋違橋はまたやりますが、橋の先は「八ッ小路」という賑やかな場所でしたから、橋の手前もきっと賑やかだったんでしょうね。
ところで、これ、何のためのものでしょう?
万世橋の、袂にあります。
調べときますね。
そろそろ次へまいりましょうか。
次は「五軒町へ出て…」
kiha-gojusan-hyakusan.hatenablog.com
振り返って「上野広小路に出まして…」