螺旋を描いて…

螺旋 のごとく続く毎日を綴ります

松本市と長野県の思い出・19…

引き続き、大学時代のお話。

 

留年して、2年(本当は4年!)かけて、英語の単位を取りました。

マジメに出ましたよ!

意地になって。

 

晴れて4年生になったわけですが…、ここでは驚愕の事実が、僕を待っていました。

 

もちろん、当たり前のことなんですが…、

「卒業研究は、一級下の学生と行う!」

 

僕は彼らを全く知らないし、彼らも僕のことを知らない。

さらに彼ら同士は、一緒に3年間過ごしてきた仲なわけです。

 

そう、僕の扱いは、「転校生」に近い。

既に出来上がっている関係の中に、入り込まなければならなかったのです。

 

しかも、僕の同級生は、みんな卒業してしまっている。

数少ない友達も、みんな。

今でこそ、就職活動はインターネットで情報が取れますが、当時はそんなものはありません。

普通なら、面接に行った体験談とかが、同級生や友達同士で共有されていたはず。

そう、就職活動を左右するとも言える、情報源が断たれていたのです。

全く社交的と言えない僕には、1年の留年は非常に厳しい代償をもたらしたのです。

 

最初は、どちらも試行しました。

もがくように。

でも、就職活動は何回か失敗して、やめてしまい、大学にも行かなくなってしまいました。

 

夏頃なんかは、MSXというパソコンのプログラムを組んでたり、持っていたスポーツタイプの自転車を乗り回したり。

郵便局のバイトは続けていましたけど、それ以外は堕落していましたね。

 

ある日。

10月ぐらいには、なっていたかな?

その日も自転車を乗り回していました。

確か、川沿いに進んで、隣町の豊科町(現:安曇野市)まで走っていました。

夜、河川敷には灯りもなくて、並行する道路のライトが、わずかに辺りを照らすような感じで。

川面が不気味に光って、怖かったですね。

 

その何日か後でした。

「こんなことをしてて、いいのか?」

 

このまま行ったら、卒業は出来ないだろう。

卒業できなければ、また来年も、授業料が発生する。

親に、説明できるのか?

授業料を払った場合、生活できるほど稼いでいるのか?

 

そう、答は「大学に戻ること」

恥を忍んで、迷惑を掛けたパートナーにも詫びを入れて、卒業研究(C言語によるデータベース作り)を再開したのでした。

 

制作はなんとか間に合い、卒業はなりました。

ただ、授業料が発生しなくなっただけで、職に就くには至らなかった。

翌年度はその一点を目標に、生活を送ることになります。

 

 

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