引き続き、大学時代のお話。
留年して、2年(本当は4年!)かけて、英語の単位を取りました。
マジメに出ましたよ!
意地になって。
晴れて4年生になったわけですが…、ここでは驚愕の事実が、僕を待っていました。
もちろん、当たり前のことなんですが…、
「卒業研究は、一級下の学生と行う!」
僕は彼らを全く知らないし、彼らも僕のことを知らない。
さらに彼ら同士は、一緒に3年間過ごしてきた仲なわけです。
そう、僕の扱いは、「転校生」に近い。
既に出来上がっている関係の中に、入り込まなければならなかったのです。
しかも、僕の同級生は、みんな卒業してしまっている。
数少ない友達も、みんな。
今でこそ、就職活動はインターネットで情報が取れますが、当時はそんなものはありません。
普通なら、面接に行った体験談とかが、同級生や友達同士で共有されていたはず。
そう、就職活動を左右するとも言える、情報源が断たれていたのです。
全く社交的と言えない僕には、1年の留年は非常に厳しい代償をもたらしたのです。
最初は、どちらも試行しました。
もがくように。
でも、就職活動は何回か失敗して、やめてしまい、大学にも行かなくなってしまいました。
夏頃なんかは、MSXというパソコンのプログラムを組んでたり、持っていたスポーツタイプの自転車を乗り回したり。
郵便局のバイトは続けていましたけど、それ以外は堕落していましたね。
ある日。
10月ぐらいには、なっていたかな?
その日も自転車を乗り回していました。
確か、川沿いに進んで、隣町の豊科町(現:安曇野市)まで走っていました。
夜、河川敷には灯りもなくて、並行する道路のライトが、わずかに辺りを照らすような感じで。
川面が不気味に光って、怖かったですね。
その何日か後でした。
「こんなことをしてて、いいのか?」
このまま行ったら、卒業は出来ないだろう。
卒業できなければ、また来年も、授業料が発生する。
親に、説明できるのか?
授業料を払った場合、生活できるほど稼いでいるのか?
そう、答は「大学に戻ること」
恥を忍んで、迷惑を掛けたパートナーにも詫びを入れて、卒業研究(C言語によるデータベース作り)を再開したのでした。
制作はなんとか間に合い、卒業はなりました。
ただ、授業料が発生しなくなっただけで、職に就くには至らなかった。
翌年度はその一点を目標に、生活を送ることになります。
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